下松市議会 2022-06-16 06月16日-04号
それと、市内で久原翁を研究されておられる方、こういった方々によるパネルディスカッションが行われまして、これが本当に貴重な久原翁を学ぶ機会になったというふうに思っておりますし、この様子につきましては市広報の6月号に掲載をしておりますので、どうぞ御確認をいただきたいというふうに思います。
それと、市内で久原翁を研究されておられる方、こういった方々によるパネルディスカッションが行われまして、これが本当に貴重な久原翁を学ぶ機会になったというふうに思っておりますし、この様子につきましては市広報の6月号に掲載をしておりますので、どうぞ御確認をいただきたいというふうに思います。
久原翁の理想都市としての壮大な志は、そこからを起点として、日立・日石・鋼鈑・ドック、そして、日立跡地があったからこそ生まれた商業施設の代表のタウンセンター、これらの基幹事業が本市のにぎわい、そして、雇用の場を生んで、そして、我がまちが住みよさがトップ10という、日本一とも言える誇れるまちに進化をさせてきたという歴史であります。
人材育成のために久原翁の寄附によって設立された下松工業学校は、下松工業高校へと発展し、同校の長い歴史において多くの技術者を輩出しており、本市産業の発展に大きな役割を担ってまいりました。
先ほどから阿武議員さんのほうから、久原房之助翁の紹介をしていただきましたけれども、下松市は秋田県小坂町、茨城県日立市と非常につながりが深く、これは久原翁のつながりということになると思います。
また、先般上映された映画「ある町の高い煙突」の久原翁は、笠戸湾と沿岸地帯を東洋のマンチェスターにしようと御尽力をされて、現在の日立製作所笠戸事業所や新笠戸ドックを創建、現在の「ものづくりの街くだまつ」の礎を築いたと言われております。
藤田伝三郎翁自身に限らず、実は小坂銅山という銅山が秋田県小坂にございますが、その経営をされまして、今まさに御紹介いただきましたように、その後を甥の久原房之助が引き継ぐわけでして、そして久原翁は、この銅山経営に専任されるわけでありますが、ちょうど、茨城県の日立に、この日立銅山をつくられて、今御紹介ありましたが、これがちょうど明治38年でございまして、今年がちょうど100年になります。